
途中、バックミラーがかすめた跡を残す電柱を横目で眺めながら、対向不可の生活道路を慎重に進む。ようやく広くなった道に出て「宇賀部神社」の駐車場に辿り着いた。そこに掲げられた説明板には、駐車場の一画に小野田寛郎(オノダヒロオ)元陸軍少尉の両親が、晩年を過ごされた屋敷がこの一画にあったと記されていた。そう言えば神職一族も小野田氏、地名も小野田だ。小野田寛郎氏も一族出身だったようだ。

鳥居を潜り階段を上ると、なんとお尻を上に向けた出雲っ子の狛犬が。大和系や出雲系が交差する古代の日本が頭に浮かぶ。


見上げると神門を兼ねた立派な割拝殿が。その前には小野田寛郎氏の座右の銘“不撓不屈”の記念碑があり、割拝殿の向かって右側には、小野田寛郎氏のコーナーが設けられていた。


フィリピンのルバング島で終戦を知ることなく30年間、最後の一兵になるまで過酷な環境で生き抜いた最後の帝国軍人は、昭和の人間にとって忘れ得ぬひとりだ。

さて、小野田さんも興味深かったが、ここには伝承に惹かれてやってきた。和歌山県の名草エリア(現在の和歌山市と海南市)には語り継がれてきた古代の女性酋長の物語がある。名草戸畔(ナグサトベ)の伝承だ。
「日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」に次の記述がある。
六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉
旧暦6月1日、皇軍が名草村に着き、そこで名草戸畔という名の者を誅殺した
誅殺はクーデター首謀者や国に反逆する者が処刑された時に使う言葉だ。つまり後の神武天皇、磐余彦(イワレヒコ)の神武東征で、討たれたということ。ところが地元では今なお名草姫の名で2000年前に実在したと思われる古代の女王を敬愛している。地元に伝わる伝承では、磐余彦に討たれた名草戸畔の遺体を、頭、胴体、足の3つに分断し、3ヶ所の神社に埋葬したとある。頭が葬られたとされるのが「宇賀部神社」。通称「頭の宮」だ。
縁起の詳細は和歌山県神社庁のHPに詳しいが、“一説に、神武天皇ご東征当時、紀北を支配していた豪族、名草戸畔の首級を祀るともいう”と、触れられているに過ぎない。祭神は神明帳によると軻遇突智命(カグツチノミコト)。神職の小野田家所蔵の宝治2年(1248)に記された古文書には、景行(ケイコウ)天皇の御代(71~130)に、山城国(現在の京都市右京区)「愛宕神社」を勧請したと記されており、古来から祭神として祀ってきた3柱のうち、中央祀神の宇賀部大神を軻遇突智命とする説に符合するらしい。このあたりがよく分からなかったが、HPにも詳細については不明と書かれていた。
現在も頭の守護神、頭病平癒の神“おこべさん”として敬愛されていることや、名草戸畔の腹部は「杉尾神社」、脚部は「千種神社」にそれぞれ近くに祀られている伝承から、古代女王の実在性は高いように思える。日本書紀で1行しか記されていないのが、よりリアリティを感じるではないか。また名草戸畔は討たれたものの、皇軍そのものは押し返すことに成功したという伝承もある。神武東征が目指す大和入りを、平易だと思われる平地沿いではなく、厳しい山越えルートを選ばざるを得なかったとすれば、名草戸畔をはじめ、各地の豪族の抵抗が激しかったという絵が思い浮かぶ。皇軍から見れば逆賊、民から見れば英雄と言う図式もリアル。神武天皇もまた実在したのだと思う。

神木の“栂の木”を見上げれば、この日の天気のようにスッキリした。「杉尾神社」、「千種神社」と名草戸畔を訪ねる旅を続けよう。
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